性格が悪い

何かを書いたような気になっているが何も書いていないブログ

私は筋肉をあきらめた

去年の暮れから今年の初めにかけて、パーソナル・トレーニングというものをやってみた。

自分は小さい頃からガリガリでまったく体重が増えなかった。父親も母親も痩せているからだろう。

身長はわりと高めなのが救いだったけど、同級生の男子たちが第二次性徴を迎え、いわゆる「大人らしい体つき」になっていく中で自分だけが取り残されていった。変わったのは声ぐらいで、骨ばった手足にはまったく筋肉がつかなかった。

SLAM DUNK』の影響で中1からバスケを始めた。自分がいた中学では一番ハードな運動部だったので、体力はついた。特に持久力は驚くほど上がり、マラソン大会の順位は、小学校のときはがんばっても120人中ビリに近かったのに、中学1年では200人以上の中で30位ぐらいになった。

50m走のスピードも格段に上がったから、おそらく筋力もそれなりについていたのだろう。それはそうだ。あれほどハードな練習をほぼ毎日やっていたのだから。

でも自分の体に、いわゆる「筋肥大」はほとんど起こらなかった。身長は伸びても体は細いまま。同級生からはたびたびからかわれていて、ものすごく悩むほどではなく自虐ネタにしてはいたけども、やはり「どうして俺の体には筋肉が付かないんだろう」とは思っていた。

だが、いわゆる「デブ」よりはマシだと自分では思っていたし、痩せたいのに痩せられない人のほうがつらそうだなあとも感じていた。高校に入った頃からは「どんな服でも似合うから痩せているほうがいい」というような話もちらほら聞こえてきた。

一応言っておくと「痩せているとどんな服でも似合う」というのは間違いである。自分が高校生の頃に流行っていたようないわゆるアメカジはまったく似合わなかったし(デニムやチノパンに“着られている”感じになる)、かといって細身の人に似合うような服は高価だった。スーツを着る年頃でもないし、スーツだって厳密には「ガリガリ」な人にはあまり似合わないのである。

高校を出たあと、「スポーツをやっていたやつが大学に入って運動をやめた途端太りだす」という現象を何度か目にした。そのとき自分はちょっとした優越感を感じた。一般の人が努力しなくては得られないスリムな体というものを、自分は何の苦労もなしに得ているのだと。

当時は音楽にハマッており、基本的にはミュージシャンはスリムであることから、自分は「ガリガリな俺」を許容できるようになっていた。これでいいんだ、俺は、不健康そうでもいいんだ、という自己肯定である。

20代が終わり、30代を経ても、自分の体型は高校生のときとほぼ変わらなかった。身長176cm、体重55kg周辺。ここまで書いていなかったが、自分はこの体型にしてはかなり食べるほうである。しかも夜中にセブン-イレブンの大盛りペペロンチーノを食べる、米は基本的に一食で一合など、普通なら絶対に太る食生活を送っていた。それでも自分の手足は相変わらず細く骨ばっていた。

しかしあるとき、僕は自分の体型の変化に気づいた。腹だけが出ている。

それは食後が特に顕著で、実家に帰った際風呂上がりの僕の姿を見た母親に指摘されるほどだった。

全体的に太っているのも微妙なものだが、痩せているのに腹だけが出ているというのはまた別種のネガティブなイメージを想起させる。不衛生とか惨めとか病的とか、そういったイメージ。

いろいろ調べた結果、僕はジムに行くことを検討し始めた。だが以前に公営ジムへ通い独学でトレーニングをしたもののまったく効果がなかったことを考え、パーソナルトレーナーのお試しというものを申し込んでみた。

ジムで合流したトレーナーは身長こそ僕より10cm以上低かったが、胸も腕も足も筋肉がパンパンだった。筋肉が付いている人は皆自身に満ち溢れている。筋肉らしい筋肉がまったくなくいつも自信がない僕にとってはまぶしいぐらいに。

いくつか運動を試したあと、トレーナーは「自分はフリーでやっているので契約してみないか」と提案してきた。細かいことは端折るが、結果的に僕は総額20万円ほどを払って契約することになった。大手のジムに通うことも考えたが、そのトレーナーは「大手はどこも画一化されたメニューしかやらないので、あなたのような『太れない』人には効果がないんです」と言った。

レーニングでは単なる筋肥大的メニューと並行して「筋肉がつきにくくなっている体を本来の形に戻す」ためのメニューが行われた。やみくもにハードな筋トレをやればいいと思っていた自分としては目からウロコだった。さらに、食事についても「食べたほうがいいもの」「食べないほうがいいもの」を教えてもらった。足りない栄養素についてはサプリを購入した。

視界が開けた気分だった。今までの自分は本当の努力を怠ってきたのだ、“プロ”に指導してもらって栄養について考え、効果的なトレーニングを行っているのだから、少なくとも公営プールで海パン1つになっても恥ずかしくない程度の肉体には生まれ変われるのではないか。なんせ安くないお金も払っているのだし。

しかし半年にわたって行ったトレーニングの結果、僕の体は以前と何ひとつ変わらなかった。痩せているのに腹だけ出ている。プッシュアップバー、腹筋ローラー、ホエイプロテインを購入して自宅でもトレーニングを行い、肉はほぼ鶏だけにして皮も取り除いて食べていたというのに。

もちろんそれなりに筋力(筋持久力?)は上がる。1セット10回もできなかったことができるようになり、ウェイトも重くなる。でも“筋肥大”はまったくといっていいほど起きなかった。半年近く経った頃、トレーナーは僕の体について「大きくなったんじゃないですか」と言ったけど、その口調にはまったく確信がなさそうだった。僕も「そうですかね…」としか答えられなかった。我々の間には「こんなはずでは」「やっぱりだめなのか」という重苦しい空気が漂っていた。

いたって普通の腕立てや腹筋でも1カ月ではっきりと筋肉がつくような人みたいにうまくいくとは思っていなかったけど、半年にわたる努力が何も生み出さなかったことは少なからずショックだった。

それは中学生のときバスケ部で感じたショックにも近かった。3カ月練習をさぼっていたやつに3日で何もかも抜かれるという経験は、僕に「努力が実を結ぶとは限らない」「最終的に努力は素質に敗北する」という、そりゃそうだろうとわかってはいるものの残酷な現実を知らしめた。それから四半世紀以上経って、またも僕は痛感したのだ。この世にはどうにもならないことがある、という至極当たり前のことを。

でも今度のショックが中学生のときのショックとまったく同じショックだったかというと、そうでもない。僕ももう大人だから、ある側面においてはそれなりに傷つくことにも慣れてきている。俺の体に筋肉を付けることはできない。その事実を20万円を支払って学んだと思えば良い。何もせず「どうせ筋肉なんてつかないよな〜」と思いながら漫然と過ごしていれば、20万円は失わなかったかもしれないけど、同時に何も学べなかった。選択肢は放り出されたままだった。

おそらく僕は、40歳を過ぎて正しく傷ついたのだ。傷つき、敗北して、そこから学びを得た。他人から見ればバカバカしいものではあるかもしれないけど、痛切な何かを引き受けたのだ。そういう意味では、あの半年間と20万円には意味があった。今のところ、僕はそのように考えている。

今週のお題「肉」

アプリでは はかれない 美しさ

 

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前の記事で「金を払って自分の世間的価値の低さを思い知る」と書いたものの、これは厳密には間違っている。正確には「自分の」の前に(マッチングアプリでの)が入る。

マッチングアプリで見る他者のプロフィールはあくまで数字や静止画でしかない。その人がどんなふうに立って歩き、どんなふうに話すか、どんな声をしているかといった要素はほぼわからない。

人が人に好意を持つ場合、必ずしも好印象から始まるとは限らないし、端から「素敵やん」と思うとも限らない。むしろ第一印象では「感じ悪い」と思っていた相手があとで気になったりしてしまうこともある。

「なんとなくこの人、いいな」から始まって「年収はあまり多くないみたいだけどこの人なら許せる」とか「ちょっと年上すぎるけど問題なし」とか「ちょっと髪が薄いけど彼ならかわいいと思える」とか「ちょっと化粧が濃いけどまあいいや」とか、要するにマッチングアプリのプロフィールからははかれないような、言語化が難しい魅力によって人が人を好きになることだってあるはずで、それは理想とするにはあまりに稚拙というかティーンの恋愛みたいだって鼻で笑われるかもしれないけど、けど人が人を好きになるっていうのはそういうことなんじゃないかって、長ったらしい一文でまとめてしまったりする。

とはいえ、自分がこの「なんとなくいいわと思える人」かというと全然そんなことはなく、僕はリアルであろうがアプリであろうが特に誰からも相手にはされないと思う。アプリでのスペックも低ければ、実際に会ったときの雰囲気もあまり良くないだろう。

まあ僕の問題は置いておくとして、マッチングアプリで本気で傷付いたりしている人には、やっぱり「こんなもので自分の価値なんかはかれないしいちいち落ち込まないほうがいいですよ」と言いたい。

普通に生きてればそのうち絶対いい出会いが…なんてことは言えないし(昔は実際そうだったかもしれないけど)、たぶんこの先、一生未婚で孤独死する人はもっともっと増えていく。コロナ禍のせいでますます”出会い”は減っているし。でも結婚して子供こさえたって孤独死しないとは限らない。

人間という生き物は誰かと一緒に暮らすのが当たり前という前提で長い間やってきたからなかなか難しいけど、これからは「どうやって一人で生きていくか」ということが大事だ。他人に好いてもらおうとしたり、他人を好こうとして手に入れたかりそめの幸せにはそのうち”復讐”されると思う。

でもさっき近所の商店街を歩いてたら後ろ姿が素敵な女性がいて「結婚したい」と思った。やっぱ一人はクソだな。

金を払って自分の世間的価値の低さを思い知る

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夜中に書いたせいか、前の記事のタイトルがなんだか恋愛自己啓発ブログみたいになっていて気持ちが悪かった。

で話の続きだが、遅れてきた就職氷河期みたいな経験をもうしたくないのでマッチングアプリは2ヶ月ぐらいでやめた。ご存知の人も多いかと思うが、基本的にマッチングアプリは男ばかりがべらぼうに金を払う仕様になっている。

男女の給与差とかの社会問題は置いておいて、いろいろな意味でつらい。マッチングアプリをやるという選択肢を取るだけで、ある程度恋愛面における”負け組”であることを認めなければいけないうえに、いざ飛び込んでみると誰にも相手にされず、おまけに安いとはいえない金額を払い、もとを取るぞ!と必死になっても何ひとつうまくいかない。金を払って自分の世間的価値の低さを思い知るとか、ほぼマゾヒズムに近い。マッチングアプリの運営者は懐が潤い、ユーザーは涙で枕を濡らす。

世間を見渡すと、皆いとも簡単に相手を見つけていとも簡単につきあい、いとも簡単に結婚しているように見える。昨今は芸能人の不倫絶対殺すマンみたいな連中がネット上で跳梁跋扈しているが、不倫とか浮気とか多目的トイレとかいう前に自分は本命一人見つけられない。だんだん中原昌也の愚痴みたいになってきたな。

最近のインセル犯罪とか見ていても、「モテない」ことが人間を歪ませるのは間違いないのだが、このモテないということの厄介さは

モテない→人格が歪む→さらにモテなくなる→さらに人格が歪む

という負のスパイラルを生み出すことだ。

この理屈っぽい愚痴のような文章を書いている時点で、すでに末期だが、続きは気が向いたらまた書く。

自分のことを好きになる人を好きになる才能、自分が好きな人を自分に振り向かせる才能

けっこう前に始めたこのブログでは映画の感想を中心に書いてきていたのだけど、世の中のブログの大部分がそうであるように(知らんけど)、いつの間にか放置してしまっている。

たまに思い出したように書いたりして「よし、これからまたコンスタントに書くぞ」と決意を新たにするかというとそういうわけでもなく、ていうか映画の感想とかもっとうまく書ける人とかほかにいくらでもいるし、あとで読み返すと自分の文章力とか解釈力の無さに引くし。

映画の感想って作品によって書ける文量がまちまちになる。面白い映画だから文量が多くなるかと必ずしもそうではないし、逆にびっくりするほどつまらない映画のことはたくさん書けたりする。

というわけでもうこのブログはおしまいにしよう…とも思わなかったりする。どうしてかというと、「100人読みにきた」みたいな通知がいまだに来るわけで、それはやっぱり、どうしようもない駄文とはいえコツコツと書いたものはそれなりに検索に引っかかったりするのよね、ということだ。

だから新しい何か、映画の感想とかじゃない何かを書こうと思うのだけど、何を書いたらいいのだろうと、夜中の3時半に考えている。

とりあえず現在の僕は42歳男性、異性愛者で独身で婚歴なし、文章を書く仕事をしている。家は神奈川県の東の方にあって、実家は兵庫県。父親は2年前に死んで、母親と弟が実家にいる。趣味は映画とかドラマを観ること、写真(全然読まれない写真ブログを持っているが本当に読まれない。というか見られないが正しいか)、たまに音楽鑑賞(最近はDeafheavenばかり聴いている)、あと読書(最近読んだのは『第三帝国の興亡』)、野球観戦(阪神タイガースのファンである)。体を動かすことは嫌いじゃないので一時期草野球をやっていたが、運動神経(って今も言うんだろうか)ははっきりいって悪い。

などと書いているとマッチングアプリにおけるあまりよろしくない自己紹介のようだが、まあそんな感じ。マッチングアプリは昨年3種類ぐらい試した。だからマッチングアプリの話を書こうか、今日は。前にも書いた気がするけど。

とりあえず、わりとちゃんと取り組んでみた(バカみたいな言い方だ)マッチングアプリはPairs、Omiai、withである。ググりもしないで適当なことを書くが、自分としてはこの3つがマッチングアプリ三羽烏だと思う。

このブログを読んだことのある人ならわかると思うが、もちろんこの記事はこれらマッチングアプリ三羽烏それぞれの攻略法などを解説するわけではない。だからそういう内容の文章を期待してこのブログに来てしまった人は、もっとちゃんとマッチングアプリを紹介している別のブログに言ってしっかりカモになってほしい。

ただそれでも、やってみてなんとなく感じた印象を一言でいうなら、こんな感じになる。

Pairs=20〜30代が多いので自分のようなおっさんには向かない

Omiai=どんなだったか忘れた。Pairsよりは年齢層が近いかも

with=年齢層的にもルックス的にも趣味が合いそうな人のいる率的にも一番自分に向いていたのでけっこうちゃんとやった

しかし、なんとなく知ってはいたもののマッチングアプリの世界は想像以上に厳しかった。なんせマッチングしないのである。飛べない豚はただの豚だし、マッチングしないアプリはただのアプリだ。

withはほか2つと比べて「いいな」と思える女性をけっこう見つけたので、アプローチしたのだが、これがもうびっくりするほどマッチングしない。マッチングして挨拶したのに全然返事が帰ってこないこともある。おそらく「うっかりマッチング」してしまったのだ」。なんだか道徳的にまずいことを言っているような気になるフレーズだが。

もちろん、1人の女性に対して数百人ぐらいの男がアプローチを仕掛けているからである。だから、よっぽど顔がいいとか、年収が高いとか、プロフィールの書き方がうまい(つまりある意味でのコミュニケーション強者である)とかでないと、ほぼ相手にされない。僕は就職活動をしなくてずっとフリーターをやってて30代後半でやっと正社員になったのだけど、大学に行っていた同級生たちが「また落ちた…」と就職活動に絶望していたことを思い出した。そう、マッチングアプリというのは男たちにとって良い会社を探す就職活動(基本氷河期)のようなものなのである。ほとんどは書類選考で落ちる。

それでもまあ、1人の女性とやり取りをするようにはなった。就職活動でいえば面接のようなものだ。しかし話が盛り上がらない。相手が犬を飼っているので「僕も実家で犬を飼っていたんですよ」などと返してみるが、見事に話が盛り上がらない。当たり障りのない会話が次第にまばらになり、やがてこちらが何か聞いてもまったく返事は返ってこず、相手のプロフィールを改めて見ると「なんだか疲れてしまったので少し休みます」みたいなことが書いてあったりするわけである。つまり、会社(彼女たち)にとって有望な人材は見つかりませんでした、見つかりませんでした、見つかりませんでした、ということ。

でもこっちも「絶対にこの人に会いたい!」とも思ってなかったりするから、それほどショックを受けるわけでもない(マッチングアプリでいちいちショック受けまくってる人はそれはそれできつい)。相手はよく見りゃ微妙な写真をプロフィールに使ってるし、あるとき新しく貼られた写真が「あれ?別人の方ですか?」みたいなルックスだったりする。

今回はご縁がなかったということで…と気を取り直し、新しくいいなと思う人を探すのだが、見つかるのは前にも見たことのある人たちばかり。

意外に多いのが、それは良くないとマッチングアプリまとめサイトとかに書かれているにもかかわらず画像を加工しまくってる人、そしてその対極にいる、悪い意味で自分を少しもよく見せようという工夫がない人である。

しかしだ。前者にも後者にもなんだかなあと思いつつ、そんな上から目線で言ってる自分もまた相手から見れば「ぷっ、しょぼい顔」「うわっ…この人の年収、低すぎ…?」(注:400万台なので年齢を考えれば低い)なわけで、もうこれは地獄みたいな世界だ。

マッチングアプリなどというものに頼らないといけない時点でその人は少なくとも「モテる人」ではないわけであり、現実では恋人を見つけられなかった人である。「出会いがないのよ」というのはやはりいいわけではないかと思う。いろいろな人を見て思ったのだが、やっぱり魅力がある人というのは、自分のことを好きになる人を好きになる才能があるし、自分が好きな人を自分に振り向かせる才能もある。

眠くなってきたので、続きは気が向いたら。

『すばらしき世界』を観た

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終盤、ある小道具によって状況を説明するという演出がよかった。並の監督なら直接的に描写しちゃうよね、あそこは。映画芸術だとああいう演出が鼻につくとか言われてまたワーストに入れられちゃいそうだけど。

予告はシリアス寄りに編集されてる気がするが、実はもうちょいコミカル。特に六角精児とのシーンではかなりウケてた。自分はそこも好きだけど車のピューってやつに笑いをこらえられなかった。

主人公の三上は予想よりさらに危ない人ではあったけど、どこかチャーミングで魅力がある。だから観ている人は「どうかうまく更生してほしいな」と思う。…と思わせておいてから突然彼の危ない側面を見せてくるので「本当にこの人は助けてあげるべき人なのかな」と、彼を取り巻く登場人物のように我々は戸惑ってしまうわけだ。

この物語において三上の次に重要な登場人物はもちろん津乃田なわけだが、彼はきっと三上に自分と通じるものを見ていたんだと思う。不器用で、長澤まさみが演じるディレクターみたいにうまく立ち回れない自分は三上と変わらないのではないか。しかし三上が自分と違うのは、良くも悪くも直情径行なところ。そんな三上に津乃田はあきれつつ、うらやましさも感じていたのでは。彼の三上への接し方が変わるあたりは描写不足な気もするので唐突に感じたりもするのだが。

しかし、やっぱり西川美和監督は意地悪な人だと思う。三上の先行きが明るくなってきたところで冷や水を浴びせるようなシーンをもってきて、我々がああいった場所(ネタバレになるので書かない)になんとなく想像する滅菌された空気を完璧に裏切ってみせる。そしてそのあとさらに観客を(いい意味で)あざむく。しかも2度も!

ラストについては「その終わり方だけはやめてね」と思うものをちゃんと回避してくれてよかった。だからといってこの映画の終わり方に意外性があったわけではなかったけど、冒頭に書いた演出がやっぱりよかったな。思いつきそうで思いつかないよ、あれ。

タイトルの『すばらしき世界』にはほんのり皮肉も込められてるんだと思う。でもラストカットに映る空は、社会から見れば清濁の“濁”とされてしまう三上のような存在を否定も肯定もせず、ただ静かに広がっている。英題の『Under the Open Sky(この広い空の下で)』っていうのはいいタイトルだなと思う。

森達也の著書の「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」というタイトルをなんとなく思い出した。我々の住む世界はいかようにも見えるし、いかようにも変わる。三上はそれまで自分が見ていたものとは違う世界を最後に見出したんではないだろうか。


映画『すばらしき世界』本予告 2021年2月11日(木・祝)公開