性格が悪い

バカのくせに映画の感想とか書くブログ

『ジョーカー』が批判される理由を適当に考える

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※明確なネタバレはないものの、観る前にいっさい情報を入れたくない人は読まないことを推奨します。

ホアキン・フェニックス主演でジョーカー誕生譚を映像化。そのことを知った時点で「これはもうほぼ勝ち戦やん」と思ってしまったわけですが、実際に映画を観たところほぼ大満足で、ここのところずっとApple Musicで本作のサントラを聴いてますし、気がつけば「ジョーカー」とググってしまう日々を過ごしています。恋かしら。

とはいえ、例えばイギリスの新聞ガーディアンにおけるピーター・ブラッドショーのレビューでは、本作は「今年もっともガッカリした映画」「浅い」「フェニックスの演技は悪くないが『ザ・マスター』のほうが上」と書かれ、星二つの評価となっています。そのほかにも海外のメディアではけっこう辛い評が多く、ヴェネツィア国際映画祭で最高賞を獲った作品にしては評論家筋の受けが良くありません。また、ここはてなブログでは絶賛ばかりが見受けられますが、Twitterなどでは「期待外れ」という感想も散見されます。

 絶賛についてはもういろいろなところで言われ尽くされ、書かれ尽くされている気がするので、『ジョーカー』がなぜ一部から批判されるのか、自分なりに適当にまどろっこしく考えてみました。

まずこの映画を批判するときに、「悪に堕ちていく人間に過剰に同調している」というものがあります。この意見を最初に読んだとき、「でもそれではアンチヒーローものやピカレスクロマンはすべて悪い作品ということにならない?」と思いました。例えばジェイク・ギレンホール主演の『ナイトクローラー』や、それこそ『ジョーカー』の下敷きにもなっている『キング・オブ・コメディ』も“よろしくない作品”になってしまうのではないか。

ただ、『ジョーカー』は『ナイトクローラー』や『キング・オブ・コメディ』と比べて、主人公と観客の精神的な距離が非常に近いと思うんですよね。『ナイトクローラー』や『キング・オブ・コメディ』はあくまで客観的に遠くから狂人を見る映画ですが、『ジョーカー』は観客に「狂うのもやむなし」と思わせてしまう。僕なんかは単純なもんだから、ラストに「立て、立つんだジョー(カー)!」と思わずにはいられませんでした。

エンターテインメントストーリーにおいて「共感」という要素は言うまでもなく重要です。観客は主人公に感情移入することで驚き、怒り、涙し、そして最後に(多くの場合)勝利して笑います。『ジョーカー』もほぼこのフォーマットで観客の共感を得ていきます。しかしこの物語において主人公アーサー・フレックが行き着くのは、健全なエンターテインメントのゴールを反転させたような場所です。アーサーに共感してしまった人たちは、自分たちがいつの間にか心地よくわかりやすい物語という乗り物に乗せられて、どす黒い怒りと怨嗟が渦巻く世界にたどり着いてしまったことに気づきます。そして「こんなところに来てしまった」と思うのと同時に、こう感じるのです。「だがこれも悪くない」と。

この映画は極めてシンプルに作られています。もちろん、どこからどこまでがジョーカーの妄想なのか、などといったことなどを考えれば少し複雑に思えてくるかもしれませんが、プロットはとても単純。不遇の男がひたすら痛めつけられ、世間に対する怒りを爆発させて狂う。シンプルで共感しやすい物語は、疲れ切った大衆の心に簡単にしみこんでいきます。こんがらがり、結局はほぐせないかもしれない糸をひとつずつほぐしていく作業に人々は疲れている。それならシンプルにハサミで切ってしまえばいいのではないか。そしてこの映画では、アーサーがまさにハサミを使って凶行に走ります。僕は思っちゃいました。「いいぞ、もっとやれ」と。正直、地下鉄の件もスカッとしました。でも同じように感じる人は少なくないんじゃないでしょうか?

実際にこの映画を見て凶行に走るようなやつは最初からおかしいのだ、というホアキンの主張はしごくもっともだと思います。僕だって「死んだら宴会をする」レベルで嫌いなやつは数人いますが、殺したりはしない。ただ、実際に行動を起こすかどうかはともかくとして、この物語が、常人には理解しがたいはずの怪物が生まれる状況を常人に共感させすぎるほどのわかりやすさで提供してしまったことには一抹の怖さも感じます。そしてこのことは、また別の側面からこの作品が批判される理由にもなっているかと思います。

何度も書いていますが、この物語はとてもわかりやすい。同時に、これまでの映像作品で描かれてきたスーパーヴィランのジョーカーと比べると、今回のジョーカーはとてもわかりやすいわけです。つまり、得体の知れない存在だった過去のジョーカーと比べて、アーサー・フレックのジョーカーは動機がはっきりしすぎている。

例えば『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーは、自分の口が裂けている理由を劇中で何度か説明しますが、そのどれもが真実なのかわからない。すべてウソなのかもしれない。そして彼の凶行の背景には恨みのような、人間っぽい感覚がない。ただ“面白いから”やる。そこには混沌と闇があり、まさしく人ではない何か=神か悪魔のような存在なわけですが、『ジョーカー』のジョーカーはあまりにも人間っぽすぎるのですね。以前のジョーカーを崇拝していた人たちからすれば、今回のジョーカーは凡庸な悪に見えてしまい、失望するのかもしれません。現に「『ジョーカー』じゃなくて『アーサー』でいいじゃん」という意見もどこかで見ました。たぶん、そういった猛者の人たちからすると「こんなのは大したお話じゃないよ。そこいらの常人の雑魚(そこには多分日本で“暴発”した殺人者も含まれている)と同じレベルにジョーカーさんを引き下げるんじゃないよ」ということになるのでしょう。やっぱり一部の人にとって、ジョーカーは神話の登場人物でいてほしいんじゃないかな。

あと単純にあれだな、『キング・オブ・コメディ』とか『タクシードライバー』のオマージュがけっこう露骨なので、そういうところでも冷めちゃう人はいるのかも。特に前者については、あからさまですもんね。シネフィルってそういうのを「下品」と言いそう。

ただ僕は、この映画が良作であるかそうではないかはともかくとして、こんなに陰鬱な物語が日本でヒットして共感を呼んでいる(らしい)ことにはちょっと薄ら寒いものを感じます。僕みたいなちょっと変わり者の底辺だけが共感するような話が、もはやマジョリティに盛大に受け入れられるという状況は決して幸福とは言えないんじゃないでしょうか。もちろんいつだって世界は病んでいるし、人々は憎しみ合い、少数の人間が多くの人間を搾取してきたわけなんですけど。

あ、ホアキンの演技はいわずもがな、この映画は撮影と音楽がやっぱりいいです。けなす人も撮影と音楽だけは褒める人が多い。撮影のローレンス・シャーは『ハングオーバー』シリーズでも監督のトッド・フィリップスと組んでるんですが、実は僕が大嫌いな『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』も撮ってるんですねえ。『ジョーカー』はフィルム撮影だと思いこんでたんですけど、調べてみたらデジタルでした。確かに解像感についてはフィルムにしてはクリアすぎる気がしましたが、色合いがものすごくフィルムっぽい。

音楽はヒルドゥール・グドナドッティルというアイスランドのミュージシャンが担当してるんですが、彼女は『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』であのヨハン・ヨハンソンのあとを引き継いだ人なんです。最近話題のHBOのドラマ「チェルノブイリ」でもすごくいい仕事をしているので、よかったらこちらもチェックしてみてください。これまた気が滅入る話ですが、面白いです。

というわけでまとまりなくつらつらと書いてきましたが、『ジョーカー』は僕のような凡人からすると、結果的に面白い作品ということになっています。続編は作らなくていいんじゃないかと思うけど…。