ぼくは性格が悪い

バカのくせに映画の感想とか書くブログ

第76回「『アメリカン・スナイパー』を観た」

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American Sniper/アメリカ/132分

監督:クリント・イーストウッド
原作:クリス・カイル、スコット・マキューアン、ジム・デフェリス(『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』〔後に『アメリカン・スナイパー』と改題して文庫化〕)
脚本:ジェイソン・ホール
撮影:トム・スターン
編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
出演:ブラッドリー・クーパーシエナ・ミラー ほか

テキサス出身のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)はアメリカの特殊部隊「ネイビーシールズ」に志願して入隊。派遣されたイラク戦争でスナイパーとして160人(公式記録。非公式には255人)の殺害を達成し、味方からは「ザ・レジェンド」と尊敬されるが、戦場での過酷な体験によって次第に疲弊していく。

※ネタバレあります!

 川崎チネチッタ、109シネマズ川崎(IMAX)にて鑑賞。

 今年(といってもまだ2月だけど)一番楽しみにしていた映画です。原作はクリス・カイル自身の回顧録で、つまり実話をベースにしています。公開前日に原作の文庫版が出ていたので、Kindleで読んでみました。

アメリカン・スナイパー

アメリカン・スナイパー

 

 文庫版、Kindle版は安いんですけど、懐に余裕がある人は単行本を買ってもいいかもしれません。単行本には、Kindle版には(多分文庫版にも)無い写真が載っています。

ネイビー・シールズ最強の狙撃手

ネイビー・シールズ最強の狙撃手

 

 一つ気になったんですけど、この本の中で出てくる「追撃砲」って言葉、これって「迫撃砲」の間違いですかね? ググってみると追撃砲という兵器もありそうな感じなんですが…原文でmortarとなってたら確実に迫撃砲なんですけど。

 さて、感想ですが、いつも楽しく読ませてもらっているくつしたさんのレビューにて、僕が思ったことはほとんど述べられている(しかも僕よりも3那由多倍ぐらい読みやすく丁寧な文章)ので、僕の記事は読む必要がありません。糞して寝てください。

 

 

 糞も出なかったし眠れなかったという人は続きを読んでください。

 くつしたさんは映画を観た時点では原作を全く読んでおられなかったということなので、僕は原作との比較を絡めつつウダウダ書いてみたいと思います。

 ほぼ口述筆記から書かれたと思われる回顧録には、例の「羊、狼、番犬」の話とか、ロデオの体験とか、奥さんを口説いた時の話とか、映画にも出てくるエピソードも登場しますが、ほとんどは戦場での体験の話です。そして使用していた銃器の細かい説明もよく出てくるので、ミリオタは涎を垂らして喜べるでしょう。

 戦闘体験について語っている箇所はかなり力が入っています。話しているカイルも思い出しながら興奮していたんじゃないかなと思います。そして、彼はとにかく「戦いたい」「敵をやっつけたい」と繰り返し言います。ちょっと異常なんじゃないの、この人、と思うぐらい戦争にとりつかれている印象です。自分が前線から外されそうになると、安心するどころか不満に思う始末。もっともこれはカイルだけの話ではなく、彼以外の隊員もそうであった(少なくともカイルからはそう見えていたっぽい)ようなので、シールズというのは文字通り「特殊」な人たちでないと務まらない部隊なのかもしれません。

 映画ではカイルが最初に撃ち殺すのは少年ですが、実際には彼が初めて殺害したのは女性です。後に、カイルは実際に少年(これは女性を殺害した時にそばにいたのとは違う少年)を殺すことになりますが、母親らしき女性が亡骸に駆け寄って悲しみをあらわにする場面を見た時の気持ちについて、彼はこう言っています。

「子供を愛していたのなら、戦争から遠ざけておくべきだった。武装勢力になど入らないよう監督しておくべきだった」

 なんとなく視野が狭いというか、想像力が少し足りないんじゃないかなあと感じてしまいます。戦争から遠ざけておくことができない事情があったのかもしれないし、武装勢力に入らなければならない理由もあったのかもしれない。アメリカが戦っている連中たちの民間人に対する非道を思えば、そういうことも考えられそうなものです。でも、彼はそういう想像をしない。あるいは、想像をしたくない

 回顧録ではカイルの「俺たちのやっていることは間違っていない。悪は排除されなければいけない」というような主張が頻発されます。あまりにこの主張が繰り返されるので、「本当はこの人の心の中にも葛藤があるのかもしれない」と僕は思いました。読者に言い聞かせているようでいて、実は自分自身に対して夥しい数の殺人を正当化しなければいけなかったのではないかと感じたのです。

 映画でも同じですが、回顧録ではカイルの回想の合間に時々妻のタヤの回想がはさまれます。ここで感じるのは、戦場にいる夫とアメリカで待つ妻の感情の、あまりに大きな齟齬です。カイルが「この作戦でこんなことがあって、このぐらいの距離から、何人撃ち殺した」みたいなことを話しているのに対して、タヤは「もう除隊して帰ってきてほしい」という悲壮な願いを打ち明けています。

 タヤはカイルとの子どもを産み、恐らく一番夫に一緒にいてほしい時期にひとりで育児をすることになります。初めての育児なんて、それはもう「大変」の一言ではすまされない苦労でしょう。そんな時に、夫は遠く離れた国にいて、いつ殺されるかもしれない。彼女の精神的負担は相当なものであったのではないかと思います。

 その上、カイルは戦場でタヤと電話で話しながら任務につくのです。その最中に銃撃戦が起こったりして、タヤとしては気が気ではありません。こんなんだったら端から電話なんかかけんなよとすら思うのですが、タヤにとっては殆ど異世界での出来事である戦争が、カイルにとっては日常と地続きになっているからこそ彼はこんな電話ができるのかもしれません。この時点で彼はもう戦争というぬかるみにどっぷり浸かってしまっている。

 カイルは「戦場にいないと戦争のことなんてわからない。現場を知らない奴が知ったようなことを言うな」とも主張しますが、はからずもこれが妻タヤに対する意見のようにも見えるのが皮肉です。彼は妻を愛していたようですけど、心のどこかで「どうせ俺が見てきたこと、やってきたことは到底理解できない」と思っていたのかもしれません。

 この映画のラストカット(葬送シーンは実際の映像なので除外する)がタヤのどこか不安げな表情のフェイドアウトになっているのは、とても重要だと思います。このショットはカイル視点のショットではありません。この時彼はもうタヤに背を向けています。直前の家族の暖かな交流は、ここで永遠に断ち切られることになってしまうのです。僕はカイルの運命を知っていたので、このショットを本当に重く感じました。

 映画にあって原作にないシーンについて。

 まず誰もが印象的に感じるであろう、イラク側のスナイパー、ムスタファ。原作では「ムスタファという凄腕のスナイパーがいるらしいと聞いた」と言及されますが、実際にカイルとムスタファが交戦したわけではないようです。

 そして虐殺者(The Butcher)と呼ばれる極悪非道のキャラクター。彼がドリルで子どもを殺すシーンも原作にはありません。というか、こうしたわかりやすい敵も原作では出てきません。

 1本の映画として強固なストーリーの軸を作るために「カイルたちは“虐殺者”を追うが、ムスタファによって妨害される」という脚色をしたのでしょう。原作通りに描いてしまうと、ただカイルがとにかく敵を排除するだけで、「物語」性は弱まってしまいます。

 ムスタファのキャラクターは、この映画に西部劇的な要素をもたらしています。この演出だけは、何かとドキュメンタリー・タッチに近づく傾向が強かった近年の戦争映画と一線を画しています。そして彼にもカイルと同じように家族がいて、夫を案じる妻の不安そうな顔が映し出されることになります。

 物語のクライマックスで、カイルはムスタファをスコープに捉えます。そしてとんでもない長距離狙撃を成功させます。実際には、この長距離狙撃はもっと非ドラマチックな状況で成されました。どうせこの距離からは当たらないだろうと高をくくって米軍をおちょくっていた奴を、カイルは狙撃するのです。これ以外にもカイルはゴムボールを使って川を渡っていた武装勢力を嘲笑うように殺したりしているのですが映画では描かれず、こういった点が「クリス・カイルを過度に英雄視している」と批判される原因なのではないかと思います。

 それはともかく、カイルによるムスタファの射殺は、この物語の結末を考えれば脚色上かなり有効に機能していると思います。既に書きましたが、彼はものすごく遠い距離から、彼の合わせ鏡のような存在のスナイパーを射殺します。これが意味しているのは、自分の分身のような存在に向けて放った銃弾が、距離(時間、紆余曲折)を経て結果的に自らを殺すという凄まじいアイロニーです。つまり彼はあの時ムスタファだけでなく自分自身にも銃を向けていたのです。

 カイルを射撃場で撃ち殺したのは、彼が回顧録の中で何度も「守りたい」と言っていた味方の兵士です(この兵士個人とカイルに面識があったわけではないけど)。戦場で過酷な経験をした人間という意味ではカイルとこの元兵士も合わせ鏡のような存在です。ただ、カイルは彼より少し精神的にタフだった。イラクで、カイルがムスタファよりも少し上回るスナイパーだったように。

 ニーチェの有名な言葉で「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というものがありますが、カイルはライフルのスコープ越しに図らずもその深淵を覗いてしまったのかもしれません。そしてその深淵に捉えられてしまった。スコープの奥の奥にいたのは自分自身だった。と解釈するのは考えすぎですかね。

 4度目の派遣での砂嵐はとにかく誰が何をしているのか、敵味方もわかりません。この状況は、アメリカが何と戦っているのか最早わからなくなってしまっている状況の暗喩でしょうか。最後にカイルがライフルを置き去りにするのも意味深です。彼はここで自分の心を永久に戦場に置いてきてしまったのかもしれません。

 エンドクレジットの無音演出が話題になってますけど、無音自体はそんなに珍しいものでもない気がします。例えばミヒャエル・ハネケはいつも無音です。でも本作の無音クレジットは、ハネケより不気味です。カイルが殺されるシーンは遺族への配慮等から文字で説明されるだけで、実は少し不満があったのですが、このぶつ切りのような終幕から実際の葬送映像、そして無音クレジットへの流れが、後からボディ・ブローのように効いてくるのです。

 不気味といえば、この映画は全体的に不穏な音あるいは音楽で恐怖心を煽る場面が多く、極め付けはやっと軍を辞めて家に帰ったカイルがテレビを見ているシーンです。銃声や爆発音が響いているので、戦争映画か記録映像でも見ているのかなと思うのですが、回り込んだカメラが映し出すのは何も映っていないテレビです。次のカットに変わると、テレビの灰色の画面にはカイルの姿が反射して映り、聞こえている音も子供の悲鳴に変わります。カイルの目は何かを見ているようでもあるし、何かに見つめられているようでもある。ここの怖さはほとんどホラー映画でしょう。心底ゾッとするシーンです。

 主演のブラッドリー・クーパーのこの役への入れ込みようは凄かったようで、それは劇中の彼の身体を見ればわかると思います。1日8,000kcalの食事とトレーニングによって18kg増量したとのこと。劇中で約190キロのバーベルをデッドリフトするシーンがありますが、フェイクでなく実際の重さのものを持ち上げているそうです。それからちらちらとメレルのハイカットのスニーカーが映るんですが、これは実際にクリス・カイルが履いていた(原作でも言及されています)ものだそうで、今もブラッドリーが所有しているんだとか。

 監督は当初デヴィッド・O・ラッセル(ブラッドリーとは『アメリカン・ハッスル』等でコンビを組んでいた)の予定だったのがスティーヴン・スピルバーグになり、予算が膨らみすぎた結果イーストウッドに回ってきたそうです。カイルは生前「自分の体験が映画化されるなら監督はイーストウッド以外いない」と言っていたようですが、彼自身は希望が実現した映画を観ることができなかったんですね。

 スピルバーグ版もちょっと観てみたかったけど、彼は『アメリカン・スナイパー』で脚色を務めたジェイソン・ホール、キャストにはダニエル・デイ=ルイスを迎えて、

帰還兵はなぜ自殺するのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ16)

帰還兵はなぜ自殺するのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ16)

 

↑を映画化する予定だそうです。

 ちなみに、僕は『アメリカン・スナイパー』の1度目を川崎チネチッタの普通のスクリーンで、2度目を川崎109のIMAXで観ました。撮影そのものはIMAXではなくALEXA(最近のデジタル撮影はこのカメラかRED)というデジタルビデオカメラで行われているので(ALEXAで撮影→IMAX上映というと『ゼロ・グラビティ』も同じ)、高いお金を払ってIMAXで観なくてもいいっちゃいいです。迫力を感じたいならIMAXですが。

 余談。隣で観てたカップルの女性の方がエンドロール後に連れの外国人男性に「誰が主人公だったの?」と訊いていました。何故か僕も深淵が覗き込めた気がしました