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ぼくは性格が悪い

バカのくせに映画の感想とか書くブログ

第59回「為末大さんの文章を(超)意訳してみた」

 そんなに暇でもないけど、為末大さんが安藤美姫さんの写真炎上について書いた文章がアホな僕にはよくわからなかったので自分なりに(超)意訳してみました。

 元の文章は↓です。
 アホな僕は↓のように解釈しました。

これは最近私が気にかけていることでもあった。私個人は、社会への悪影響の防止という大義名分によって、安易に集団で個人を批判しても良いとは考えていない。

安藤さんが批判されてもしょうがないという人たちの言い分は、以下のようなものだろうか。

 

(1)安藤さんは他のスポーツ選手と比較して嫌われているから。
(2)人を罵る言葉であれ、言論の自由があるのだから何を言ってもいい。
(3)何か言われるのが嫌なら最初からSNSにあげなければいい。自己責任だ。
(4)不愉快な思いをした人がいたのだから、安藤さんは制裁されるべきだ。
(5)一般人も叩かれているのだから、安藤さんも叩かれるべきだ。

 

まず(1)に関して。昔、私が所属していたクラスでいじめが発覚し、学校単位で話し合いが行われたことがあった。その時のいじめっ子の言い分が、「だってみんなその子のこと嫌いだったから。その子にもいじめられる原因があると思う」というものだった。みんなに嫌われている人間であればいじめてもいいというのは勝手な思い込みで、それを理由に他者を攻撃していいということにはならないと私は考える。
以前、ナチスに反対した嫌われ者のドイツ人について書かれた本を読んだことがある。ドイツの哲学者ハンナ・アーレントは、ナチス親衛隊員だったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、「集団の多数決に正義を依拠する人が最も大きな悪を犯す」と喝破してみせた。
ハンナ・アーレントが実際にこのように発言したのかは不明。

(2)は、ヘイトスピーチを肯定する人たちのロジックではないかと思う。私は愚行権という言葉が好きだ。愚行権とは、たとえ他人から愚かだと判断されても、実際に社会や自分に害がない行動であれば容認されるべきだという考えだ。他者の行動を評価する自由はあっても、抑圧することまでが自由だということにはならない。

(3)と(4)に関して。画家が往来で描いていた絵を見た通行人が、「こんな絵を衆目に晒すべきではない、撤去しろ」と文句を言うようなものだろうか。そういう人は、その絵を評価する他者が存在する可能性に考えが至らない。全ての人間には、平等に、関心を持つものを選択する権利と自由があるということに気づいていないのではないだろうか。

(5)について。断言はできないが、SNSに子供の顔写真をアップして炎上した一般人の前例はこれまでにあるのだろうか。少なくとも私は、そのような話を見聞きしたことがないように思う。スポーツ選手や芸能人などの著名人と、一般人に対する「監視」の目の強度には、明らかに差がある。勿論、だからといって一般人は何をしても批判されることがないとは考えていないが。

いじめと同じで、無くそうと努力はできても、実際にこういった事例がなくなることはないと思う。しかし、不可避なものであることを理由に、他者を攻撃してもいいということにはならない。不可避であるということは「認識」であって、他者を批判する「理由」にはならない。繰り返すが、嫌悪する権利はあっても、嫌悪を理由に個人に対して攻撃を行うことが問題なのである。

ただ嫌いであるというだけで他者を攻撃することが容認される社会では、嫉妬による攻撃も容認されるし、「普通ではない」と見なされた人間への攻撃も容認される。そして最も大きな懸念は、今回の安藤さんへの批判だけでなく、こうした事例を見て育つ子供たちが社会で萎縮してしまう事だろう。画一化が徹底され、「出る杭は打たれる」社会では、しばしば規範から逸脱する傾向が見られる「天才」と呼ばれる人たちが育ちにくい。それは結果として社会全体の損失につながると私は考えている。よって私は、今回のように、個人の行動(言動)に対して社会が過度に監視・干渉することには反対である。

  う〜ん、やっぱりわかったようなわかんないような感じだ。僕の解釈も何か間違ってるのかもしれないし、文章の組み換えが下手なんでしょうね。ただ、この作業の中で、為末さんの言いたいことが「なんとなく」わかった気はします。

 余談ですが、このブログを書く前に電話をかけてきた友だちに「為末大って、体操の選手だっけ?」と聞いて、「陸上だよバカ」と突っ込まれてしまいました。